Partager

第102話 全部、自分で決めない会社

Auteur: 花柳響
last update Date de publication: 2026-09-18 06:01:31
 改札の手前でバッグを受け取ると、景都の握っていた持ち手が少し温かかった。

 肩へ掛け直しながら、私は今日の話をもう少し続けたくなった。

「次のテスト結果、社外へ出せる範囲になったら見せる」

「楽しみにしてる。あの大きい方、使いやすかったから」

 もう一つ話しかけようとして、駅の時計が目に入った。続きは次に会った時にしよう。そう思えることが嬉しかった。

 LATTICE SHIELDのオフィスへ行くのは、結婚していた頃以来だった。

 会社は移転していて、受付もロゴも知らない。

 入館証には私の名前の下に『VISITOR』と印字されている。昔は景都の机まで勝手に入れたことを思い出し、今の方がむしろ正しいと思った。

 景都の会社なのに、初めて来た場所みたいだった。

 物流拠点の打ち合わせがひと区切りつき、担当者が追加の資料を取りに席を外す。

 ガラスの向こうで、若い社員が景都を呼び止めた。

「深見さん、これ見てもらえますか」

 景都は立ったまま画面を見る。

「まず結論を一文で。理由は二つでいい。三つ目は一つ目と重なっている」

 若い社員は一度画面へ目を落とし、言
Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application
Chapitre verrouillé

Dernier chapitre

  • 嫌いだった女が死んだ夜、元夫の愛が怖くなった ――もう一度、あなたを愛せるまで――   第146話 仕事で勝つ

     シンガポール向けの最終サンプル評価で、改良した三種類のポーチをテーブルへ並べた。高湿度対応の生地、裏側を厚くした引き手、現地の棚幅に合わせて五ミリ縮めた外寸。 前回より評価はいい。ただ一つ、沙耶が橙へ赤い反対票を入れた。「現地の照明だと色が沈みます。青と灰を先に出した方がいい」 悔しくて、実店舗の照明データを出す。シミュレーション上は許容範囲だった。「数字ではね」 沙耶は橙の試作品を窓際へ持っていった。「私は現地の棚を知ってます」「でも、この色は残したいです」 言ってから、それだけでは仕事の理由にならないと分かる。 景都は危機対応側の席にいるが、口を挟まない。 私は試作品を手に取り、角度を変えて見る。「本投入は青と灰にします。橙だけ、通常の二割で店頭テストを続けさせてください。売れなければ切ります」「二割?」「それ以上は要りません」 沙耶はもう一度光へかざし、頷いた。「それなら賛成」 会議が終わり、廊下へ出る。 私が会議の感想を聞く前に、景都が「俺に聞く?」と言った。「今日は聞きたい」「よかった。全部残すって意地張るかと思った」「そこまで子どもじゃない」「引き手三ミリで俺に怒ってた」「あれは景都が正しかったから腹が立ったの」 二人で笑う。 そこへ沙耶が追いつき、橙が売れたら謝る、売れなかったら私が謝る、という話になった。 握手をして別れる。 会社へ戻ると、後輩が橙のサンプルを見て「これ残ったんですね」と嬉しそうに言った。「二割だけ」と返し、テスト数量を共有表へ入力する。橙の欄だけ数字が小さい。惜しい気持ちは残ったが、入力した二割を消そうとは思わなかった。 帰宅前、サンプル棚の照明を一段落として橙を見た。昼間より沈んで見える。沙耶が言ったことは、やはり間違っていなかった。それでも二割だけ残した判断まで間違いとは思わなかった。 帰りの電車で、橙の試作品を膝に置いた。二割という数字は自分で決めた。愛着は残っている。それでも、全部残すか

  • 嫌いだった女が死んだ夜、元夫の愛が怖くなった ――もう一度、あなたを愛せるまで――   第145話 沙耶の最後の条件

     海外テストの出発日が正式に決まった。三週間後。現地滞在はまず五日間で、結果次第では長期展開の話もある。 最終契約の打ち合わせで、沙耶が危機対応の条件を一つ追加した。現地で問題が起きても、商品担当が単独で会見へ出ず、久世とmellow noteの広報確認を入れる。私だけではなく担当者全員、LATTICEにも同じ条件だという。 景都は資料を読み、妥当だと頷いた。「珍しく意見が合いましたね」 沙耶が言うと、景都は「仕事だから」と真顔で返す。先に笑ったのは私だった。 会議の最後、沙耶から現地の連絡先一覧を渡された。一番上が彼女自身、その下がmellow note、LATTICEはさらに下にある。「何かあったら順番どおりに、とは言いません。ただ、深見さんが全部止めようとしたら私にも連絡してください」「信用されてないね」「実績がありますので」 景都が何も返せず、私はまた笑った。 会議後、エレベーターで沙耶と二人になった。数字が一階へ近づく間、彼女は資料を鞄へしまいながら、これで仕事上はしばらく終わりだと言った。 扉が開く直前になって、こちらを見ないまま続ける。「深見さんを、あまり待たせない方がいいですよ」「またその話ですか」「最後です。あの人、待つのが下手だから」「知ってます」「ならいいです」 ロビーへ出ると、景都が数歩離れた場所で電話をしていた。こちらに気づいても近づかない。沙耶との話が終わるまで、その位置から動かなかった。 車寄せでは運転手が傘を開き、誰かを待っている。以前なら、景都も電話を切った瞬間にこちらへ来て、次の予定を確認したかもしれない。 今日は私が歩き出すまで待っていた。 電話が終わり、目が合う。私は先にロビーの自動ドアへ向かった。景都が追いつく。「腹減った?」 最初に出てきたのがそれだったので、少し笑う。「かなり」 近くのサンドイッチ店へ入った。出発まで三週間しかないのに、話したのはパンの具と明日の会議の時間くらいだった。 サンドイッチ店では、景都がいつもの

  • 嫌いだった女が死んだ夜、元夫の愛が怖くなった ――もう一度、あなたを愛せるまで――   第144話 私を選ぶのは、私

     記念会の翌日、ネットには沙耶と景都が同じ会場にいる写真が出た。少し後ろには私も写っている。見出しは〈深見家と久世家、再び接近か〉。 灯は訂正を出すか聞いたが、断定記事ではないので放っておくことにした。気にならないわけではない。ただ、すべてを訂正して回ることにも疲れていた。 昼、沙耶から〈昨日はすみませんでした。母には私から話します〉と来る。 〈大丈夫です〉まで打ち、消した。 代わりに、〈私も驚きました。でも、久世さんの責任ではないと思います〉と送る。 夕方、沙耶が追加契約の署名で会社へ来た。手続きが終わっても席を立たず、「昨日、悔しかったです」と言う。 断られたことではないらしい。「私はずっと、彼があなたを選んだから私が選ばれなかったと思ってたんです」 沙耶はペンを机へまっすぐ置いた。「でも、自分から何も言ってなかった。選ばれるかどうかばかり見て、自分が何を選ぶかは口にしてなかった」 私は契約書の自分の署名を見る。少し右上がりの字だった。「私も、似たことしてました」「知っています」「そこは言わなくていいです」 二人で笑う。 沙耶は鞄を持ち、「私は深見さんを選ばないことにします。今さらですけど」と言った。「私に宣言するんですか」「負けを認めるみたいで嫌なので、そういう意味ではありません」 ドアの前で一度振り返る。「水城さんも、選ばれるのを待つだけにしない方がいいですよ」 一人になった会議室で、契約書をもう一度見る。 名前を書くのは簡単だ。恋愛になると、同じ一行が急に書けなくなる。 沙耶が帰ったあと、会議室の椅子を元へ戻した。彼女が座っていた場所だけ机の上に細い水滴の輪が残っている。ティッシュで拭きながら、自分の返事を急に作る必要はないと思う。沙耶が今日一つ決めたからといって、私まで同じ速度で進む必要はない。ただ、決めないことを選び続けている自分へは、そろそろ目を向けた方がよさそうだった。 夜、景都から〈今日はありがとう〉と来た。何の礼か聞くと、昨日、言いすぎるところを止めてくれたことへの礼

  • 嫌いだった女が死んだ夜、元夫の愛が怖くなった ――もう一度、あなたを愛せるまで――   第143話 景都の拒絶

     久世ホールディングスの創業記念会に、mellow noteも招かれた。仕事上の付き合いだと思っていたのに、会場へ着くと取引先だけでなく久世家と深見家の親族までいる。「聞いてないんだけど」 景都へ小声で言うと、彼も会場を見回した。「俺も。父が来るとは聞いてない」 沙耶は壇上の挨拶を終えるとすぐ来て、家の会になっていることを自分もさっき知ったと謝った。珍しく、本当に困った顔だった。 そこへ年配の女性が近づき、沙耶の肩へ手を置く。「景都さんも来てくださったのね。沙耶とは仕事ばかりで、昔のお話も進まなくて」 空気が止まった。 縁談のことだと分かる。 沙耶が止めるより早く、景都が「その話はありません」と言った。 女性は昔の話だと笑って流そうとしたが、景都は重ねた。「今もありません。沙耶さんと結婚するつもりは、昔も今もないです」 胸が強く鳴る。沙耶の顔も硬くなった。 景都がさらに説明しようとするので、私は袖へ指を掛けた。「そこまででいい」 口が止まる。 女性は気まずそうに別の客へ向かった。 残った沙耶が深く息を吐く。「本当に容赦がないですね」「悪かった」「謝るなら、昔の縁談の時に言ってください」「正式に来る前に断ったはずだ」「そういうところです」 二人のやり取りがあまりに昔からの知人らしく、少し笑いそうになる。 沙耶がこちらを見た。「今のを見ても、彼があなたの前で弱くなると思います?」「弱くなるというより、雑になることはあります」 景都が何か言いかける。「前よりはまし」 今度は沙耶が笑った。 その後、会場では、何人かから形式的な挨拶を受けた。〈お久しぶりです〉と言われても、誰だったか思い出せない人もいる。結婚していた頃なら、失礼がないよう景都へ小声で確認していた。今日は名刺を受け取り、分からない人はそのまま分からないままにした。知らないことを恥ずかしがらずに済むだけで、会場でも前ほど息が詰まらなかった。 

  • 嫌いだった女が死んだ夜、元夫の愛が怖くなった ――もう一度、あなたを愛せるまで――   第142話 降りるのは、私じゃない

     翌朝、灯がまとめた数字を久世側へ送った。私が映った記事の閲覧数は確かに高い。けれど商品ページへの流入はむしろ増え、購入中止や取引停止へつながった形跡もない。海外では私生活の記事自体、ほとんど読まれていなかった。 会議室でその数字を示すと、沙耶は黙ってグラフを追った。「現地で同じとは限りません」「だから、問題が出た時に止めてください。出る前から私だけ消すのは違います」 広報責任者が視線を往復させる。私は商品サンプルを一つ手元へ寄せた。「私が降りれば記事は静かになるかもしれません。でも、それで『元夫との関係があるから外された』と書かれたら、それが事実になる。それに、私はこれを作った人間です。現地で使われるところまで見たい」 最後は数字ではなかった。言ってから、感情論だと切られるかと思った。 沙耶はもう一度資料を上から見直し、画面を閉じた。「担当はそのままにします。ただし私生活の質問が増えたら、広報はこちらで止めます」「そこはお願いします」 会議が終わり、ほかの人が先に出る。廊下で沙耶が追いついてきた。エレベーターへ乗る直前、広報責任者が追いかけてきて、修正版の体制表を渡した。現地担当の欄に自分の名前が戻っている。紙の端はまだプリンターの熱を持っていた。「自分が外される話になると、急に強いですね」「そうですか」「もっと早く、そのくらい言えばよかったのに」 誰に、とは聞かなくても分かった。「昔は言えなかったんです」「今は?」「言える時もあります。言えない時もあります」 沙耶が笑う。「面倒ですね」「自覚あります」 ビルの出口で別れる前、今度は私から聞いた。「久世さんも、景都に言えばよかったんじゃないですか。好きだったなら」 仕事の顔が一瞬だけ消えた。「言って、選ばれなかったら困るでしょう」 それだけ残して、沙耶は車寄せへ向かった。彼女が車へ乗るのを見送り、私は温かい体制表を鞄へ入れず、駅へ向かう間も、手に持っていた。 会社近くのコンビニでブラックコーヒーを買った。結婚してい

  • 嫌いだった女が死んだ夜、元夫の愛が怖くなった ――もう一度、あなたを愛せるまで――   第141話 不利になる提案

     海外テスト開始の一週間前、久世側から新しい条件案が出た。現地で問題が起きても、商品企画の責任者である私を前面には出さず、久世の広報が一括対応するという。 資料の私の名前の横には〈メディア対応対象外〉とある。 誰が希望したのか聞くと、沙耶自身だった。景都は関わっていない。 その事実にほっとした自分が、少し嫌だった。 沙耶は現地メディアの記事一覧を画面へ出す。番組事故、景都との関係、復縁説。商品より恋愛の見出しが並んでいた。「あなたが出れば、商品よりこちらが聞かれる。プロジェクトとしては不利です」 理屈は分かる。 だから余計に腹が立った。「提案としては受け取ります。でも、私抜きで決定しないでください」「感情的になっています?」 頬が熱くなる。「なってます」 そこだけは否定しなかった。「でも、私が出ることで本当に損失が出るなら、数字で見せてください。過去記事があるから外す、だけなら納得しません」 会議室の空調が低く鳴る。 沙耶はしばらくこちらを見たあと、資料を自分の側へ引いた。「分かりました。数字を出します」 帰りの電車で、景都へ電話しようとしてやめる。今日はまだ愚痴にする段階ではない。灯へ資料を送り、明朝までに広報データを出してもらうことにした。 スマートフォンを閉じる前、景都から〈今日は会議だった?〉と届く。 〈うん。ちょっと腹立った〉 すぐに〈聞く?〉。 〈まだいい。自分で話してみる〉 既読がつき、それ以上は来なかった。 窓へ映る自分の顔は、会議中より疲れている。正しいことを言い返せても、傷つかないわけではない。 担当から外す案が一度でも現実になったことが悔しい。 それでも、担当から降りる気にはなれなかった。 会社へ戻ると、灯がまだ席に残っていた。送った資料を開き、問い合わせ件数と記事流入のデータを拾い始める。私はジャケットを脱ぎ、椅子の背へ掛けた。怒っているのか怖いのかと聞かれ、どっちも、と答える。灯はそれ以上慰めず、「じゃあ数字で殴ろう」とキーボー

Plus de chapitres
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status